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レストラン事典

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日本に最先端のフランス料理を持ち込んだ料理人「村上信夫氏」

1921年(大正10年)東京出身の料理人で、「帝国ホテル」第11代料理長です。日本に最先端のフランス料理を持ち込んだ日本のフランス料理の代表的存在でありながら、NHK「きょうの料理」のレギュラー講師として一般家庭の料理をこよなく愛していました。若くして両親を失い、小学校卒業後直ぐに働きはじめた村上氏。戦争を経験し、敗戦国からの研修生という立場の中で修業したヨーロッパでの経験を活かし、日本が世界に誇る「帝国ホテル」の調理場を戦後長く牽引し続けました。

出生

出生

1921年(大正10年)東京都の現在の千代田区に生まれました。実家は食堂「萬歳亭」でしたが、1923年(大正12年)の関東大震災で店は全焼、1932年(昭和7年)結核で両親を失いました。小学校卒業後浅草の「ブラジルコーヒー」、銀座「つばめグリル」、「新橋第一ホテル」、「糖業会館レストラン・リッツ」などで働きました。その後1年間の見習いを経て1940年(昭和15年)に「帝国ホテル」に入社しました。

下積みと戦争

「鍋屋」と呼ばれる鍋の洗い場に回され、3ヵ月間毎日休みなく鍋を洗い続けました。鍋をきれいに洗い続けたことでシェフ達に気に入られ、村上氏が鍋を洗っているときはソースを付けたまま洗い場に回してくれるようになり、鍋に残ったソースを舐めて料理を勉強するようになりました。洗い場での仕事を評価されて、厨房に手伝いで呼ばれるようになります。小学校にもなかなか通えなかった村上氏にとって、メニューの漢字やフランス語を覚えることからの始まりでした。

帝国ホテル修業中、1942年(昭和17年)に厨房で働いていた13名のスタッフと共に出征、前線へと送られました。終戦と共にシベリア抑留されたのち帰国、1947年(昭和22年)に復職しました。

第11代帝国ホテル料理長

1955年(昭和30年)、犬丸徹三社長に呼ばれ、ヨーロッパ行きを打診されます。メニューを読むためにフランス語を勉強していた村上氏にとっては、またとないチャンスでした。在ベルギー日本大使館へ2年間出向し、1957年(昭和32年)、フランスで最も格式高い「ホテル・リッツ」で本場のフランス料理を学びました。

1957年(昭和32年)、帝国ホテル新館料理長に就任、かつて自分を指導した約20名の先輩を含む厨房全体を指揮する立場になりました。封建的な帝国ホテルにフランスの最先端の料理を持ち込み、料理だけではなく修行の方法や後輩の教育など日本の古い封建的な現場から楽しくおいしい料理を作る職場へと変えていきました。シェフが個々人でもっていたレシピを自ら進んで公開することで、帝国ホテル全体のレベルの底上げと後進の育成に役立てました。1964年(昭和39年)には、東京オリンピック女子選手村の食堂「富士食堂」で料理長を務めました。男子村兼選手村総料理長を務めたのは「日活国際ホテル」の馬場久氏です。

1969年(昭和44年)再び「ホテル・リッツ」とスイスの「ホテル・ボーリバージュ」へ研修に赴き、帰国後第11代帝国ホテル料理長に就任しました。その後も昇進を続け、1970年(昭和45年)に取締役料理長、1982年(昭和57年)に常務取締役料理長、1990年(平成2年)には専務取締役料理長まで登り詰めます。1996年(平成8年)以降は料理顧問として後進の育成に尽力しました。

功績

1960年(昭和35年)からNHK「きょうの料理」にレギュラー出演し、自らの経験と技術を料理人のみならず一般人にまで教える経験をしています。日本にフランス料理を広めた功績を讃えられ1984年(昭和59年)に黄綬褒章、1994年(平成6年)に勲四等瑞宝章、2000年(平成12年)にはフランスから農事功労賞「シュヴァリエ」を受章しています。80歳を過ぎてなお厨房に立ちながら、将来退社して自身の店を出すと語っていましたが、2005年(平成17年)8月2日心不全で84年の生涯を閉じました。

料理の極意

最もおいしい料理は「お母さんの料理」と考えた村上氏は、料理の極意として「研究」、「愛情」、「真心」の3つを挙げています。おいしい料理を家族に食べさせたいという「愛情」、そのためにテレビや本などで料理を学ぶ「研究」、ごはんの時間に合わせて準備を進め、その時間に最もおいしく食べられるように計算して動く「真心」。そのいずれかが欠けても料理はおいしくできないと述べています。