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和食店事典

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和食の歴史 室町時代

室町時代は、室町幕府があった時代を指し、1336年(建武3年)から1573年(天正元年)頃の237年間程を範囲とする説が一般的です。一方で、応仁の乱が起こった1467年(応仁元年)、または明応の政変があった1493年(明応2年)以降から1573年(天正元年)までを戦国時代と定義する場合もあります。室町時代の歴史は茶の湯の歴史でもある程に、茶とのかかわりを深めた時代となりました。

「無常観」で生まれ変わった茶の世界

「無常観」で生まれ変わった茶の世界

1467年(応仁元年)から77年まで続いた応仁の乱は京都の街を焼き払い、人々の間に絶望感が広がりました。そうした中、「世の中のすべては移り変わり、永遠に同じものなどなにひとつない」といった「無常観」が世の中の支持を得るようになっていきました。そうした世論に影響されるように、それまで賭けごとの一種として楽しまれていた「茶寄合」は姿を消し、禅宗の精神性が茶の湯に影響を与えるようになったのです。

銀閣寺を中心とした東山文化の広がり

足利義政は、応仁の乱の最中に職を辞して1482年(文明14年)から約7年を費やして慈照寺を完成させました。慈照寺は通称「銀閣寺」と呼ばれ、しとやかさと優雅さを重んじる東山文化の中心的存在となりました。足利義政は、東山にて頻繁に茶会を開き、茶の湯の流行に貢献しました。

茶の湯の一様式として「わび茶」が完成

足利義政の茶会に参加していた奈良の僧、珠光は、四畳半の茶室を考案し、茶の湯の基準を作り、「茶礼」と呼ばれる喫茶の作法を完成させました。その後、茶の湯は珠光の弟子の武野紹鴎(たけのじょうおう)が引き継ぎ、その弟子の千利休によって、現在に伝わる「わび茶」の文化が作られました。

茶道と懐石料理

「懐石料理」と「茶の湯」を結び付けたのも千利休です。懐石料理は「修行僧が温めた石を懐に入れて温めた」という意味が由来となっており、もともとは一汁二菜程度の質素な料理でした。しかし、懐石料理が茶道に取り入れられたことで、主人が客人をもてなすための凝った料理へと変化していきました。

豆腐は精進料理の食材として伝わった

懐石料理の広まりと共に、日本の食卓に登場した食材が「豆腐」です。中国では、牛や羊の乳から作ったチーズのような食べ物が普及していましたが、動物性食品を禁じる修行僧が食べられるチーズの代替品として登場したのが豆腐であったと考えられています。精進料理に欠かせない食材として日本へと伝わった豆腐は、湯葉と共に懐石料理に活用されるようになりました。

固く焼き上げるせんべいの登場

平安時代に空海から伝えられたせんべいは、米粉を捏ねてつくった団子に蜜や糖を塗って焼き上げた菓子でしたが、現在のせんべいにつながる菓子は、この時代の茶人である幸兵衛という人物によって考案されました。

日本の文化に合わせて発展

幸兵衛は、千利休の弟子で、茶人です。応仁の乱以降、街が荒廃したことで茶請けの菓子が自由に手に入らなくなったことから、小麦粉と砂糖を混ぜ合わせて焼き上げる菓子を考案しました。千利休の弟子であったことから、その菓子は「千の幸兵衛」と呼ばれるようになり、それが略されて「せんべい」となったと伝えられています。

刺身を食べる食文化が誕生

鎌倉時代末期に「たまり醤油」が誕生したことにより、生魚を厚く切ってたまり醤油に漬けて食べる「刺身」の文化が生まれました。それまでは、薄切りにした魚を発酵させる「なれ」という調理法で食べられることがほとんどでしたが、この時代を機に、生魚を食べる食文化、醤油を主体に味付けをする流れができたと考えられます。